数々のドラマや映画で功績を残してきた西田敏行さん。
エッジの効いたコメントや記者会見などで、場の雰囲気を明るくする人柄の良さも人気でしたよね。
そんな西田敏行さんですが、イメージとは違う生い立ちがあるんです。
そこで、この記事では西田敏行さんの生い立ちについて調査してお伝えしていきましょう!iyu
西田敏行の生い立ち
西田敏行さんが福島県郡山市の出身なのは有名な話ですよね。
地元愛が強く福島の復興支援も精力的に行なっていました。
西田敏行さんが生まれ育った福島での生い立ちはどんな感じだったのか見ていきましょう!
5歳の頃に養子に出された
幼い頃に父親が他界し、美容師だった母親と暮らしていた西田敏行さん。
5歳の時に母親が再婚
したことがきっかけで、母親の姉にあたる叔母の家に養子として出されました。
元々の苗字は「今井」だった西田敏行さんですが、叔母の家に引き取られたことで「西田」姓を名乗ることになったんです。
父親の他界だけでも衝撃的な出来事ですが、さらに母親の再婚で養子に出された西田敏行さん。
引き取られた先で貧乏生活
神社の社務所(事務所のような場所)
で暮らしていた西田敏行さん。
その当時は住宅不足で暮らす家がなくて大変だった時代だそうで、西田敏行さんが養子に出された先は社務所だったということです。
西田敏行さんの生い立ちに深く関わっているのが、こちらの香久山神社(かぐやまじんじゃ)です。
街頭も満足になさそうな神社で幼い頃を過ごした西田敏行さんは心細かったでしょう。
西田敏行さんの幼馴染みが当時の様子を、
「テレビを見てはチャンバラごっこの真似をしたり、神社の裏山でもチャンバラごっこ…愉快な少年でしたね」
と明かしていて、愉快な子ども時代を過ごしていたんですね。
とはいえ、思春期の頃は複雑な生い立ちにモヤモヤした感情もあったと言います。
「モヤモヤを解消しようと14,5歳の頃に話してみた。それから本当の、強い親子になれたと思う」
西田敏行さんにそんな複雑な生い立ちがあったなんて意外です。
俳優は養父の影響
西田敏行さんが俳優を志したのは映画好きの養父の影響
生活が厳しかったようですが映画館に養父とよく通っていた西田敏行さん。
特にチャンバラ映画が大好きで熱中してみていたといいます。
映画「7人の侍」を見た時、あまりの人気でスクリーンが見えなかった西田敏行さんを、映画が終わるまで母親が肩車をして見せてくれたんだそう。
一人っ子だった西田敏行さんは神社の裏山をかけずり回って、友達とチャンバラごっこしていたのは、先ほども紹介した通り。
西田敏行さんの俳優人生の原点は、神社の社務所で育った生い立ちが深く関係していたんですね。
【生い立ち】西田敏行は俳優を目指して上京
俳優になる夢を持ち始めた西田敏行さんは、方言を話していることが俳優への道を遠ざけるのでは?と考えます。
そして中学を卒業した西田敏行さんは、標準語に触れることを目的の一つに単身上京。
親戚の家に下宿
わずか16歳で地元を離れ、一人で東京暮らしを始めた西田敏行さん。
その頃はしょっちゅうホームシックになっていたんだそうです。
その当時の心境をこう明かしていました。
その頃、蒲田から新宿を経由して中野まで電車通学していたんだけれど、ある日サボって上のまでいったの。中学3年生のときに修学旅行で上野動物園に行ったことを思い出してね。そこで、ぽつんとひとりで空を見つめていた「ブルブル」に出会ったんだ。(中略)ホームシックになっていた自分と重なって(中略)それからよくブルブルに会いに行ったよ
上野動物園のゴリラのブルブルに会いに行って淋しさを紛らわしていた西田敏行さん。
振り返ってみると高校に入学するまでに父親、母親、養父、養母など大きな別れを経験しています。
西田敏行さんの大きな笑顔の背景に、そんな生い立ちがあったんですね。
高校卒業後も明治大学に進学し、大学中退して本格的に俳優への道に進むことになった西田敏行さん。
西田敏行さんの俳優人生において大きな影響を与えたのは、養父だったのは間違いなさそうです。
まとめ
西田敏行さんの生い立ちについてまとめると、
・幼い頃に父親が他界
・母親の再婚で養子に出される
・引き取られた先の暮らしは神社の社務所
ということがわかりました。
西田敏行さんが俳優の夢を抱いたのは養父の影響が大きかったそう。
唯一無二の存在感を持っていた西田敏行さんの訃報が発表されました。
末筆ながらご冥福をお祈りいたします。